8月23日。エルサレム三日目となる今日は一日朝からパレスチナ自治区へ。
It’s a sequel of my travel report from Israel. This post is about Palestine (Bethlehem/ Hebron).
一ヶ月過ごしてようやく現状が身に沁みるとも言われるこの地域に割くのがわずか一日というのは都合のいい話だと思ったけれど、それでもどうしても行きたいと思った。ブログ等を見てどのような行程を組むのがいいか調べ、パレスチナ自治区の中でも行く場所を三つに絞った。
はじめに候補に挙がったのは以下の3つ。
①ベツレヘム(旧約聖書におけるダビデの町、新約聖書におけるイエスの生誕地であり、キリスト教の聖地。エルサレムの南に位置し、分離壁がある。)
②ヘブロン(ユダヤとアラブの対立が根深い。苛烈なインティファーダとその報復が行われ、現在12万ほどのアラブ人と500人ほどのユダヤ人が暮らしている。アラブ人区域の上にユダヤ人がゴミを落とすのを防ぐため商店街の天井に張り巡らされた金網の写真が多く出回っている。)
③ジェニン(難民キャンプと救急車の断片で作られたブリキの馬のオブジェで知られる、パレスチナ北部の街。)
訪問先を選ぶにつけ、それぞれの位置関係を地図で見てみた。
ジェニンはレバノン国境に近い北部に位置しており、エルサレムからはラマッラーという街を経由して行くことが出来る。
ラマッラーは1995年12月にパレスチナ自治政府が置かれて以来パレスチナの政治的首都として栄えてきた街で、ダマスカス門の前Nabrus Rd.のバスステーションから、バス 7.3NIS、約30分で到達出来るらしい。しかしそこからジェニンまではかなりの距離があり、ここを訪問先としてしまうと他のパレスチナの町を同日に訪れることはまず不可能だ。これはまたの機会にゆっくりと訪れるのがいいかもしれない。
そこで今回は、共にエルサレムの南に位置するベツレヘムとヘブロンを、一日で訪れることにした。
ベツレヘムのバスターミナルの正直者おじさん
早朝にエルサレムのダマスカス門前のバス停へ。
調べても見つからなかったため、時刻表も正確なバスの番号も把握しないで行ったのだが、折よく泊まっていたアラブバス(ユダヤ系でないバス。青い色の車体が特徴)がベツレヘムへ行くということで乗り込む。ベツレヘムまで直通のものと、チェックポイントで止まってしまうものとがあると聞いていたが、こだわらずに乗り込んだら、どうやら直通のものだったらしい。
車内では外の景色を目に焼き付けておこうと思っていたのだが、連日の行動の疲れがたまっていたのか、あろうことか眠りに落ちてしまい、チェックポイントを通過したことさえ気づかないうちに気づいたらベツレヘムの終点に着いていた。
バス停を降りて、まずはヘブロン行きのバスを探そうとすると、わらわらとおっさん達が群がって来て、「バンクシーの壁画が見たいのなら俺がガイドやってやるよ」などと話しかけてくる。囲まれてたかられるのが嫌で、無視したままとりあえずおっさん達が来なさそうなところまで歩いて、携帯に保存していたベツレヘムのバス停の地図の写真を見る。が、イマイチ自分がどこにいるのかが分からない。
これは参ったと思っていると、先程のおっさんのうちの一人が珈琲を片手に近づいて来て、本当に君を助けたいだけなんだ、と言う。
私が警戒しつつも、ヘブロンに行きたいのだけれど、と言うと、おっさんは道の向こうを指差して、「この道を真っ直ぐ行ったところにミニバスが停まっている。それがヘブロン行きだ」と教えてくれた。
相手を初めから疑った態度をとってしまったことを少し申し訳なく思いつつ御礼を言い、私は教えられた通りの道をゆく。
ヘブロン行きのミニバスはすぐに見つかった。
最初にバスを降りたところからは大通りを挟んで向かい側、道路脇には超簡易珈琲スタンドがあって、そこでおじさんが淹れている珈琲はとても美味しそうに見えた。ただバスがいつ発車するか分からなかったので、無念ながら買うのは我慢してミニバスに乗り込む。
ヘブロンまでは5NIS、約30分の道のりである。
私は日本人のブログを参考に、エルサレム→ベツレヘム→ヘブロンと乗り換えて行ったのだが、Wiki Travel(注※英語)によると、エルサレムのセントラルバスステーションからバス160を使って行くことが、ヘブロンへ至る最も安いルートだったらしい。片道本来9NIS=$2.25のところ、運転手が割引してくれるのが常らしく、往復10NIS=約300円ほどで行けるようだ。これは安い。
ただ、このバスを用いるのはヘブロンのユダヤ人地域を訪れる超正当派ユダヤ教徒の人々が多い(私がヘブロン到着後に見たバスの乗客は少なくともそうだった)ため、ユダヤ教徒でないアジア人がこうしたバスを利用した際に運転手や他の乗客にどのような反応をされるのかは分からない。
ベツレヘムからヘブロンへは、荒野のような道を進む。パレスチナの空は快晴だ。からりと、という言葉が似合う乾いた空。
窓の向こうを、時折タイヤ販売所や携帯販売所の小さな店々が過ぎ去ってゆく。
予定通り30分程で、バスは車でごったかえしたヘブロンの中心部に着いた。
ヘブロンのダラー少年とアブラハムモスク
ヘブロンへ着いたはいいが、私は地図を持っておらず、しかも町で具体的にどこを訪れるべきかなどは何一つ見当がつかなかった。
単に、ユダヤ系とアラブ系の紛争の中心地だということだけを知り、であれば訪れなければと来てしまったのだ。
町の全体像が全く分からないままとりあえずバスを降りようとすると、運転手のおじちゃんが、「モスクを見たいならあっち」と道を示してくれた。
なるほどそうか、ヘブロンには有名なモスクがあるのか。
おじちゃんの言葉でそのことを知り、御礼を言って降りた場所は、車がぎゅうぎゅう詰め状態で行き交い、歩道を越えて溢れ出るように食べ物や食料品が売られているアラブの繁華街だった。
黄色いタクシーと露天の七色のパラソルが目に鮮やかだ。ものすごい活気に圧倒される。全く観光客がいない。白人も、アジア人もいない。アラブのための街。
少し歩くとすぐにやたら新しい茶色の案内表示版を見つけた。
同じものはヘブロンの至る所で見つけた。観光地として整備する試みが進んでいるらしい。よくよく見ると、この看板にはJICAの名前があった。日本の支援で作られた物のようだ。
まずは地図を手に入れるために、看板を頼りにVisitor Informationを目指す。
少し歩くと、一人の少年が私の方をちらちらと見ながら隣に並んできた。少年というよりは、青年と言うべきか。15歳くらいに見える。赤い服を着て、開きっぱなしの口から垣間見える歯はかけていた。
Hi、と言われHi、と返す。英語が話せるのかと思って、ここに住んでるの?と聞くと、ぽかんとしている。
英語は話せないらしい。何を聞くでも無く、歩く私について来る少年。
「Where?」
と英語で聞かれる。どこ出身かと聞かれているのかと思いJapanと答えると、不思議そうな顔をする。もう一度Whereと言った後、少年はモスク?と尋ねて来る。どこに行くのかと聞いているようだ。Tourist Office、と言ったのだが通じない。仕方なくモスク、と言うと、少年は頷いて、今度は私の前に立って歩き始めた。モスク一択ではないか。
というかこの子、勝手にガイドしてチップ要求するんじゃないだろうな?
別に標識があるから自分で行けるし、正直この少年の目からはあまり気持ちのいいものを感じない。
「君も同じ方向に行くの?モスクに行くのね?たまたま同じ方向なのね?私ガイドいらないから、ノーガイドだからね?ノーガイド」
と念を押しても、分かっているのか分かっていないのか少年は曖昧な返事。
繁華街をひたすら奥へ進むと、開いた車道から、頭上にビニールシートや鉄網が張られたアーケードに入った。少年がその一角を指差し、何事かを言う。
どうやら何かで有名な通りらしいのだが、一体それが何なのかは分からなかった。
(のちにWikipediaで調べたところによると、ここは1994年のヘブロンでの虐殺事件の後閉鎖された元商店街で、その後一度開放されたものの第二次インティファーダ(パレスチナ人の抵抗運動)によって再び閉鎖されたAl-Shuhada Streetという場所らしい。参考)
そのまま奥へ進む。
しかし奥へ進むうち、自分のペースで色々見ながら行きたい私は、徐々に隣を歩く少年がうっとうしくなってきていた。
大丈夫だから、あとは一人で行けるから、と手を差し出し、縁切りの握手をして無理矢理お別れしてしまおうとすると、案の定少年は「じゃあその前にキスしてくれ」と言い出す。
いやいやいや、それは無理だからね。
あっさり断ると、今度は「ダラー」、と手の平を差し出して来る。ダラー=dollar。お金ですね。無い無い、お金持ってないの。
あぶく銭だけを入れたダミー財布を出し、お金無いアピールをして、ここまで有難うThank youと無理矢理に言って少年と別れる。
なんだか疲れてしまったが気を取り直して歩き続ける。
そこから奥は、庇や屋根が頭上を覆い洞窟を思わせる土産物店が点々と続く路地へ。
他の旅人の方もブログに書かれていたとおり、パレスチナでは「Welcome to Palestine」、とよく言われる。それを温かいと言う旅人もいて、勿論そう思いたい気持ちは私にもあるのだけれど、やっぱりこうした土産物屋で、Welcome to Palestineのあとに、見てって見てって!と店に手招きされると、やっぱり所詮営業のいらっしゃいませなんだよなあ、と思ってしまう。
でもここで、お土産買って私達の経済を助けてよ、というように、help usって言われると弱い。何か買わないと、という気持ちにさせられてしまう。買わなかったけれど。買ってあげる、というのも傲慢な話だからと自分に言い訳する。
Tourist officeの看板は見つかったのだけれど、それがあるはずの横穴風の路地には何もなかった。閉鎖されてしまったらしい。
諦めて路地をさらに奥へと進む。
途中、人参とざくろとオレンジのジューススタンドを見つけた。この取り合わせはイスラエルと全く同じもの。
ジューススタンドから間もない道のつきあたりに銃を持った兵士が監視する検問所があった。
なんだろうかと若干ビクビクしながらそこを抜けると、
モスクがあった。
アブラハム・モスク。
元々は旧約聖書にもマクペラの洞窟として登場し、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の祖である、アブラハム(Abraham)と妻サラ(Sarah)、その息子イサク(Issac)と妻レベッカ(Rebecca)、そしてイサクとレベッカの子のヤコブ(Jacob)とその妻レア(Leah)、ヤコブの子ヨセフ(Joseph)が埋葬されていると言われている。さらにハザルというユダヤ教のラビの伝承では、マクペラの洞穴内にはアダムとエバの墓もあるとされている。モスクが建てられている洞穴の最下層は地底の奥深くにある冥府とつながっているとされる。
この場所はパレスチナ国内でありながら、イスラエルが渇望しているユダヤ教の聖地でもあり、1967年の第三次中東戦争後以来、モスクの一部が分割されイスラエルに占領された状態となっている。
アブラハムモスクは、1994年に起こった「ヘブロン虐殺事件」の舞台でもある。(この事件は、ヘブロンに住むユダヤ人医師がアブラハム・モスクの「イサクの広間」に入り、礼拝中のイスラム教徒に向かって銃を乱射、パレスチナ人29人を殺害し125人を負傷させたもの。虐殺は、犯人が周囲のイスラム教徒に殴り殺されるまで続いた。これを機に、ヘブロンはユダヤ教徒とイスラム教徒の抗争の中心となってゆく。)
セキュリティゲートを抜けて辿り着いたのはそんなアブラハムモスクのムスリムパートだった。
入り口に行くと、係員らしき男に、頭からすっぽり体を覆えるようなローブを渡される。
本当は返す時に5NISくらいチップが必要だったらしいのだけれど、私は知らずに何も払わず出てきてしまった。
モスクの中では一部修復工事が行われており、中央では男性が三人ほど祈りを捧げ、その後ろで女性が椅子に座りじっとモスクの正面を見ていた。両側にはメッカの位置や礼拝の時間を知らせる電光表示板。さらに広場の左右になにやら四角い箱のようなものがある。あれはなんですか、と女性に尋ねると、「Nothing」という答えが帰ってきた。中には何もない。空洞。メッカのカアバみたいなものだろうか。
(後に分かったことだが、ここには一応アブラハムの子イサクとその妻リベカの墓標が収められていたらしい)
また、モスク正面=礼拝の方向であるキブラと逆の方向には、地下のマクペラ洞窟に至る唯一の入口である「エデンの園への入口」もあったようなのだが、私にはどれか分からなかった。
残念ながら事前にガイドやブログなどをじっくり読まずに訪れてしまったため、どれが何かイマイチ理解出来ない。
私の他には、二組ほど、ガイドに連れられた欧米系の旅人が訪れていて、解説を聞いているのを少し羨ましく思いながら、モスクを出る。
モスクの出口の横には綺麗な公衆便所があり、トイレットペーパーも渡してもらえるので有難く利用した。チップが必要かと思ったら出る時に人がいなくて、無料で使わせて頂いてしまった。
このあたりは観光地として整備されようとしている雰囲気があり、落ち着いて見て回ることが出来た。人が全体的にいないというのもあったけれど。
この記事によると、
「イスラム教徒用入口の検問所に向かって歩きながら周りを見回すと、そこはまるで「戦場」だった。検問所付近の石造りの住宅街には、カモフラージュされたトーチカが各所にあり、パレスチナ民衆が不穏な動きをしたら、イスラエル軍がすぐに反撃ができるようになっていた。」
らしいのだが、私はひとつも分からなかった……。
ヘブロンの変態男とユダヤ人居住区
一度入ってきたのとは反対側の検問所の近くまで行ったが、そこを出てどこに行けばいいのかも分からないため、一度モスクまで戻る。
取り敢えず自分が今どこにいるのか、地図を持っていそうな人に聞いてみようと思い、もう一度モスクの前まで戻る。入り口のところに座っていたNGOらしきオフィシャルなTシャツを着た男性数人に地図を見せて頂きたいとお願いすると、彼らは少し離れたところにいる男を呼んだ。
呼ばれて近づいてきたアラブ人の男は、「私は英語教師をしており、ボランティアでヘブロンのガイドをしている」のだと自分を紹介した。
私が、申し訳ないけどガイドはいらないのです、払えるお金もないのです、と説明すると、ガイドはボランティアだから無料なのだ、と言う。無料だけど、もし気に入ったら、最後に気持ちばかりの御礼をくれたらいい。あなた次第だ。ある人は100ドルでも50ドルでもいい。
100ドル!物凄い額だ。チップのレベルを越えている。
いいんです、大丈夫です、いらないです。
断って離れようとすると、男は、じゃあタダでいいから、10分だけでもガイドさせてくれよ、と言う。ユダヤ人居住区の近くまで案内するよ。ヘブロンの現実をもっと知って欲しいんだ、と。
100ドルと言っていた人間がタダでガイドなんかするはずがないと思いながらも男がついてくるので仕方なく並んで歩く形になる。話の合間合間に、男は自分がクリスチャンであることをしきりに主張した。ベツレヘムはともかくヘブロンでキリスト教徒のパレスチナ人と会うとは思っていなかった私は最初聞き間違いかと思ったのだが、どうやら男は本当にキリスト教徒らしい。キリスト教徒がヘブロンにどれくらい住んでいるのかは分からないが、アブラハムモスクはキリスト教徒の聖地でもあるから、一定数が居住しているのかもしれない。
検問所を抜けてしばらく歩くうちに、荒涼とした廃墟に着いた。
「Ghost townだ」と男が呟いた。ユダヤ人によりアラブ人が強制退去させられて、人が住まなくなった土地。
「そして隣にあるのがJewish Quarter……ユダヤ人居住地域だ」
男が指差した道の向こうには、店々のシャッターが全て降りて砂にまみれた通りが続いている。これが本当にユダヤ人居住区なのだろうか?
廃墟の横にあったかつてのバス停のようなところに男は腰かけ、私に隣に座るよう促した。警戒した私が立ったままでいると、
俺はクリスチャンだ、と男が再び言った。
訛りが強くて上手く英語が聞き取れなかったのだけれど、クリスチャンは人口の一割もいない、ここにいる女はみんなムスリムだ、といった内容のことを男は続ける(彼の言うクリスチャンがもしキリスト教徒のことでなければこの言説は成り立たないのだけれど、とにかく女が少ないんだ、といったことを言っていた)。
そして「憐れんでくれよ」、と言いながら、男が自分の足の間を指す。
ほら来た。また変態だ。やっぱり変態だった。
いやいや、そういうことならお断りですよ、と私が立ち去ろうとすると、立ち上がった男は私の手を掴んで、10分でもいいから、と追いすがる。
10分で何しようってゆうねん。
NO、と強く言って、私は駆け足で男から数歩距離をとった。道を数歩進んで、男を振り返る。
すると男は追いかけてくる代わりにその場に立ち尽くしたまま、言った。
「そこから先はユダヤ人居住地域だ」
アラブ人である俺は行けない。行くなら行くがいい。
たった数歩の距離。でもそこには絶対の壁があった。
その時に男が見せた絶望の沁みついたような顔が、ヘブロンの廃墟の上に広がる空の青と一緒に、くっきりと目に焼き付いた。
彼らの主張、美しすぎる街並
ユダヤ人居住区は、まさに廃墟と言うに相応しい場所だった。明るすぎる廃墟。八月の太陽が燦々と照りつけ、花壇には美しい花々が咲いている。ただ、人がいない。あたりには瓦礫があるばかり。その瓦礫の街の一角、青い六芒星がたっぷりしたペンキで鮮やかに描かれた壁の近く、イスラエル側が掲げたと思われる看板があった。
「ここはユダヤの土地だったのを、アラブ人に奪われたのだ」
辺り一帯のかつては繁華街だっただろう大通りには、完全に人の気配がない。
印刷も新しい看板には、ユダヤの主張と、ユダヤ人の犠牲者への追悼の言葉が書かれていた。
私は誰一人いないこの場所で、息をひそめるようにしてシャッターを切り続けた。
慎重に歩を進めながらカメラを構えていると、突然、背後からバタバタと激しい足音が聞こえた。
はっとして振り返ると、見張り台のようなところから、長いアンテナ付きの通信機器を背負ったユダヤ兵が駆け下りてくるところだった。
もしかしてこの区域は立ち入り禁止だったのだろうかと不安になったが、ユダヤ兵は私を一瞥するとそのまま道の向こうへ消えていった。
誰もいないと思っていたけれど、彼にずっと見張られていたのかもしれない。
兵士の姿が見えなくなってから、彼が降りてきた見張り台へ私もそろそろと上がってみた。上には誰もいなかった。
あたりを見渡すと、瓦礫ばかりと思ったその地区の奥に、本当のユダヤ人居住区があるのが見えた。
それは子供向けのペンキの色も新しい遊具の置かれた公園や、子供の声の聞こえる学習塾、花々で彩られたアパートメントなどのある、一ブロックほどの区画だった。私は見張り台を降りて、その地区へ入ってみた。
ここで、数えるほどのユダヤ人が、すぐ周りのアラブ人達と隔離された状態で暮らしている。
私はゆっくりと歩く。誰もいないように見えて、きっと今も誰かが私を見張っているのだと思いながら。
しかしこういう時、アジア人はある意味便利だ。
ユダヤ人、西洋人、アラブ人、いずれとも明らかに違う顔立ちゆえに、一人でこんなところをうろついていても、外見だけで警戒されたり入らぬ嫌疑をかけられることがない。あるいは私が女であることも影響しているかもしれない。
ただ一方で、と思う。
昔、友人が私にこう尋ねたことがある。
「なぜあなたは旅をするの?」と。
その時すぐに私は答えを見つけられなくて、以来旅に出るたびに、その問いへの答えを考えてきた。
メディアを通じてでは絶対に見えて来ない世界のあり方――色も、味も、臭いも、熱もある、生(なま)の世界を見たい。
あるいは、ただ景色や叙述された言葉を消費するのではなく、現地の人達と直接出会い、言葉を交わし、自分の内側から生まれ出る何かを感じたい。
それらは、そうした旅の道のりの中で浮かんだ答えのうちのいくつかだ。
けれど、と私は思った。
けれど、私が見る世界は、本当に生の世界だと呼べるのだろうか?
世界のあり方は、人によって違う。世界の見え方も、見せられ方も。
私の二つの目に映る世界、私の二つの耳が聴く世界は、あくまで、アジア人、24歳、女、日本語と英語を話す、黒髪短髪の眼鏡、しかもオタク、が見る世界でしかない。
それらは、私のために再構築され、加工された世界の姿だ。
だからこそ、自分の足で旅をするのだとも言える。
私にしか見えない世界を見るために。そしてそれを、自分の言葉で伝えるために。誰もが世界を同じように見るのであれば、言葉の力はもっと弱いものだっただろう。
ユダヤ人居住区を抜けて、歩き回るうちに、今度はアブラハムモスクのユダヤ人サイドに着いた。
ユダヤとアラブの二つに分断されたこのモスクのユダヤ人側へは、エルサレムからバスでユダヤ人がひっきりなしにやってくる。そのほとんどが、黒い山高帽にフロックコートを纏った超正統派ユダヤ教徒だ。
再びセキュリティチェックを受けて、モスクの中へ。
図書館のような雰囲気の建物内では、ユダヤの人々が熱心に祈りを捧げていた。
建物内でもじっとこちらを監視しているユダヤ兵がいて、下手にふらふら歩いて注意されたり連行されるのも嫌なので、早々に外に出た。
近くには青々とした芝生があって、ユダヤの家族がランチを食べていた。花壇の花も鮮やかに咲き誇り、のどかな雰囲気だった。
この近くで地図を配っていたのでもらったが、ヘブライ語なうえ、ユダヤに関わりのある場所しか書かれていないためあまり参考にならなかった。
どうせ観光に来たわけではないのだ。ありのままの町の姿が見られればいい。とにかく普通のツアーで行くようなメインのところだけではなく、少し離れたところにも行ってみようと、中心街を外れてモスクの奥にあった坂道を登ってみることにした。
坂の途中には、いくつかの小さな工場のようなものがあった。ここにはどのような産業があるのだろう。
中で働いていた人が何気なく外を見て私の姿を認めると、はっとしたようにじっとこちらを見てきた。
こんなところまで来るアジア人は珍しいのかもしれない。
途中すれ違った子供たちの集団がぶつかってきて、「Give me a minute」と口々に叫ぶ。私が足を止めると、「1 Dollar 1Dollar」と次々に手を出してくる。
お金をせがんだり、どこかに連れ込もうとする時に使う言葉は国によって違うけれど、どうやらヘブロンの人達は「Give me a minute」と言うらしい。ここでは大人も子供もそうやって言葉をかけてくる。凄い笑顔でぶつかって、力づくで通せんぼしてくるのを、Sorry sorryと言って躱すと、その声真似をして遊んでくる子供達。けれど、それ以上引き止めてきたりはしなかった。
坂の上まで着くと、墓地に出た。ヘブロンには墓地が多い。
そこで座って少し休んでいると、離れた丘の上の家から、「こっちに来てコーラを飲まないか?」と声がかかった。暑さにやられた身体にはひどく魅力的な誘いに思えたけれど、そんなところに迷い込んだら最後、どうなるのか分からないので断っておいた。
しばらく休んでから、再び子供たちをかわしつつ、下へ降りていく。
坂を降りてからもその周辺をふらふら歩いていたら、途中にあった監視小屋の中から、「道に迷ったのかい?」と声をかけられた。
見ると、若いイスラエル軍兵士二人組が小屋の中からこちらを見ている。一人はサングラスの似合う白人ユダヤ兵の青年、もう一人はアフリカ系ユダヤ人だろうか、黒い肌を持った青年である。迷うも何も目的地があったわけではないのだが、それはそれで不審者と思われたら困ると思い、バスターミナルのある中心地はどっちですか、と尋ねると、丁寧に道を教えてくれた。軍人らしからぬ優しい声音に、私は、少し話をしてみようと思い、「二人とも長年兵士をやっているの?それとも、懲役兵として来たの?」と尋ねる。私の質問に二人は、「自分たちは懲役で来ていて、あと半年もすれば普通の暮らしだ」と答えた。(前の記事でも書いたが、ユダヤ人男性には三年の徴兵義務がある)
そのあとで軍を続ける気は無いの?と答えると、二人は揃って肩をすくめた。それは無いだろうね、と。
彼らのフランクな態度に、私が、写真を撮ってもいいかと尋ねると、二人は快諾してくれた。
わざわざ小屋の外に出て来てくれた二人は、あ、そうだ、と小屋に戻って、これがあったほうが格好いいだろ、と銃を担いで出てくる。
いざレンズを向けると、今度は黒人くんの方が「ちょっと待って」と言って、手首につけていた腕時計を見えるように付け直した。私にはよく分からなかったけれど、どうやらブランドものか何かの腕時計らしい。
お前見せびらかしてんじゃねーよ、と白人くんの方が彼を小突く。
二人がポーズを決めたところでパシャリ。
すごくいい笑顔。
すごく優しい青年たち。多分別の国であれば、普通に大学に行って、ふざけながらサークル活動でもしているような。
でも彼らがいるこの場所はこれまでも、今も、そしてこれからもきっと戦場なのだ。
彼らがあと半年でここを去った後も。
私はなんとも言えない気持ちになってしまった。
お礼を言って別れたはいいものの、折角のこの機会にもっと話を聞いておけばよかったという後ろ髪を引かれる思いが拭いきれなかった。
私は迷った挙句、ユダヤ人用のモスクの入り口近くにある唯一の売店でオレンジジュースを買って紙コップをもらうと、二人のところまで戻った。
「どうしたの?また迷ったの?」
尋ねる白人くんに、「もしかして暑く無いかと思って、差し入れに」とオレンジジュースを差し出すと、「いや、ここは冷えてるし、飲み物ならあるから大丈夫だよ」と笑われてしまった。
確かに、暑いヘブロンの町で、二人のいる監視小屋の中だけが、クーラーでキンキンに冷えていた。
これは恥ずかしいことをした。
勝手なことを失礼しました、とスゴスゴ元来た道を戻る私。
じゃあね、気をつけなよ、と白人くんの方が手を振る。
遊園地の観覧車のカゴくらいに小さな小屋で1日を過ごす二人は、どこか夏休みの夏期講習を屋上でサボる高校生二人組のようにも見えた。
時計を見ると、お昼過ぎまでと思っていたのに時刻はすでに二時を回っていた。
私はヘブロンの町の入り口へと急ぐ。
閉鎖された商店街、
ユダヤ兵の駐屯基地、
そして検問所を抜け、
ようやくはじめに通ってきた繁華街へ。
ベツレヘムへ向かうバスが止まるだろう中心街に向けて歩いていると、一人の青年に声をかけられた。
彼はロンドンの大学への留学経験があり、現在はボランティアで、イスラエル軍に破壊されたヘブロンの水道設備を再建する取り組みをしているのだと言う。
私にガイドを申し入れてくる青年に、申し訳ないけれどお金がないの、と言うと、青年は、「有料じゃないんです、ただ最後に気持ちばかりのものを払ってくれれば」と言い、先程の男同様に、ある人は50ドル、ある人は100ドル、その人次第です。と言う。
申し訳ないけれど、本当にお金がないの、と、再びダミーの財布を見せると、青年は、じゃあ無料でいいから、と私を促して歩き出す。
毎度同じパターンだ。ただ難しいのは、実際にこうした機会でないと見れないような場所や聞けないような話があるのも事実だというところ。私は、お金も払えないし、10分くらいしか時間がないけれど、と念を押して青年について行く。
青年が見せてくれたのは、再建途中で土がえぐれた状態になっている区域、その隣のユダヤ人軍駐屯地だった。そこを見て回って、ヘブロンが見渡せると言うビルの中へ。ビルの屋上から、四方を見渡して、ここがどこあそこがどこと簡単な説明を受ける。ネットで事前に情報を見ていた時、屋上に上って、銃痕の残るドラム缶などを見せてもらったというブログを読んだのだが、もしかしたら同じ青年なのかもしれない。
そのビルを降りる途中、青年が、「外に出てパブリックな場所でお金をやりとりするのに抵抗があるようだったら、今ここでチップを払ってもいいよ」と言い出した。
無料でいいからと言っていても、まぁ当然そうなりますよね。予想の範囲内。申し訳ないけれど、本当に無いんだ、とダミーの財布から100円相当の硬貨を見せて謝ると、青年は、じゃあいいや、と私をメイン通りに連れて行ってくれた。なんだか申し訳なくなって、あなた達の活動について、日本の人に絶対伝えるから、と言って別れる。
商店街を、入り口の方向へと早足で進む。
所狭しと服の吊るされた商店街の一角。
商店街の入り口近くでは、色鮮やかな果実が巨大なカゴに入って売られている。
お昼を食いっ逸れていたので大分お腹がすいていたのだけれど、予定よりヘブロンに長居してしまったため、早めにベツレヘムに行きたい一心で食べ物を買わず中心街へ急ぐ。地図も無いし発着場所も分からないので、中心街へ着いたあとは、道の途中途中でお店の人にベツレヘム?と尋ねる。(通行人に聞くと、だったら案内してあげるよ、とガイド代を請求されたりするため)
中心部には小さめのデパートのようなものもあって、そこを通りずぎる際、なんと朝会ったあの少年と遭遇!
こいつだ!例のダラー少年!
後ろにセブンイレブンの袋を持っている人がいるのも気になる……セブンのパクリ店があるのだろうか。
ダラー少年、歯の欠けた顔でにまりと笑って再び私について来るから、先ほどにも増した早歩きで元来た道を引き返し歩いていると、無事、ベツレヘム行きのミニバスを見つけることができた。バスの乗り場までついて来た少年を無視したまま、バスに乗りこむ。行きの時と同様、なぜか女性ばかりが乗っていた。10分程待ってバスは発車する。運賃は5NISほどだった。
ベツレヘムの心優しいおじさん
ベツレヘムに着いたのは夕方の4時くらい。そこから、まずはキリスト教の聖地「生誕教会」へ。
生誕教会は、326年にローマ帝国のコンスタンティヌス帝によってイエス誕生の地に建てられた教会。現在はカトリック・ギリシャ正教会・アルメニア使徒教会の3つのキリスト教宗派によって管理されているという。
ベツレヘムの入り口辺りはアラブの町の面影が色濃い。
途中の道では、夕食前のスナックらしいコーンの屋台カーが沢山出ていて、美味しそうだったが、少しでも止まったりしたらつけ込まれそうな気がして、ひたすらに足を動かす。
辿り着いた生誕教会の近くには、丁寧で情報量が豊富だと有名なツーリストオフィスがあったのだけれど、私はギリギリ間に合わず閉まってしまっていた。代わりに生誕教会前の似非スターバックス(公式ではない)に寄ってフラペチーノを頼んだ。わずか150円程。これがとても美味しくて、疲れた身体には極上のご褒美だった。
けれどそれで幸せな気持ちに浸っていたら、カウンターのお兄さんが、君には特別に、と前置きしてから、安くしてあげるからこれ買わない?と、手作り印刷っぽい、パレスチナの旗とスタバのマークが印刷されたマグカップを売りつけてきて、ちょっとげんなりしてしまった。買わなかったけれど。
水分補給が済んだところで、生誕教会へ。
教会の入り口ではガイドを名乗るおっちゃんに声をかけられ、50NISでガイドするよ!日本人好きだから安くするよ!というのを、お金無いの、と断ったら、ここまで遥々来るだけの金があるくせによく言うよ、みたいに滅茶苦茶悪態つかれてしまった。本当にそうなんだよね。旅する金があるなら少しでも地元に人に落としてゆけっていう気持ちは分かる。でもどうせ渡すなら、気持ちよく、自分が納得できる形で、責任ある団体に寄付したい。
地下にある生誕の洞窟では、アフリカかららしい巡礼者の一団がしきりに祈りを捧げていた。
生誕教会をぐるりと見た後は、その右奥にあるミルク・グロットへ。
生誕教会から奥の地域は、人通りも少なく落ち着いている。ここがキリスト教系パレスチナ人の暮らす区域らしい。
ミルク・グロットのマリアの図。このチャペルは、聖書の伝説ではヘロデ王の兵士から逃れてエジプトに渡ろうとしていた聖一家が立ち寄ったとされる洞窟を利用している。ミルク・グロットという名前は、聖母マリアが赤子のイエスに母乳を与えようとした時に母乳が地面に落ちて、一瞬にしてミルク色に変わったという言い伝えに基づいているらしい。
チャペルが閉まる5分前だったので、駆け足で中を見て回り、出てきた時には陽が既に赤みを帯びていた。
これ以上暗くなってから通りを一人で歩くのは危ないかもしれない。
お土産屋さんの並ぶ通りを急いでいた私に、一人のおじさんがすれ違いまま、「ラストバスは20時だから気をつけな!」と声をかけてきた。それっきり絡むこと無く去って行こうとするおじさん。私は安心出来るものを感じ、すみません、とおじさんを引き止めた。一つ聞きたいことがあったのだ。
私がベツレヘムに来た一番の目的は、生誕教会ではなかった。
分離壁。アパルトヘイト・ウォール。
幼い頃学校の教科書で目にして、そのたびに地球上にそんな場所があるのかと信じられない思いをしてきたその壁を、パレスチナに来たからには実際に見てみたいと思っていた。
wallに行きたいのですが行き方が分からないのですと言うと、じゃあ地図をあげよう、とおじさんは自分の土産物屋を開けて、白黒の地図を出してくれた。そこにマーカーで道を示し、
「メイン通りのムスリムボーイがきっと、案内してあげるとかご飯しようと誘ってくるけれど、絶対にその誘いを受けてはいけないよ。そういうのにひっかかって酷い思いをする女の子が多くて、わしは胸を痛めているんだ」と言い、私に地図を渡すと、では気をつけて行きなさい、と背中を押してくれた。
無理にものを売りつけたり、絡んだりしてこない——この人、本当にいいおじさんだ。
御礼というわけじゃないけれど何かしら買ってあげようかと思った私は、おじさんのお店で、パレスチナ産のオリーブの樹を使った六芒星や十字架を象ったペンダントトップに、しゃもじのセットを買ってしまった。そうして旅人の気持ちを掴むところからがおじさんのマーケティング戦略だったとしたら脱帽だけれど、おじさんはさらに、学生プライスだ、と言って全部半額にしてくれた上、お茶とクッキーをごちそうしてくれて、水までペットボトルにくませてくれた。私は結局おじさんのお店に30分くらい居座った末にさよならすることにした。
最後、あなたのような親切な人には初めて会いました、と言ったら、おじさんは私をハグして、押し花で作ったしおりをプレゼントしてくれた。
「ベツレヘムのキリスト教徒は人口の10%ほどの小さなコミュニティだ。皆助け合って生きている。そして私は、ここを訪れてくれるあなた達を歓迎する」
おじさんに教えられた通りの道をひたすら進む。来た時の大通りとは違い、人通りの少ない、どこか怖いくらいに整然とした住宅街だ。屋台も何も無い。行きの大通りでコーンを買わなかったことが今更悔やまれて、途中車が行き交う大通りに出たところで路肩で銀の台車を止めていた男に、思わず「それはコーンですか?」と自分から尋ねて、そうだと言われたので買ってしまった。その時は男の言い値で10NISを渡してしまったのだけれど、考えてみたらこっちの10=約300円って滅茶苦茶高い。しかも、私の食べたかった、パレスチナ風の、粒をこそぎ落としてカップに入れ調味料をかけたものではなくて、ただの茹でたトウモロコシだった……せめて塩が欲しかった……いや、醤油が欲しい……。
それでも空きっ腹の足しにはなる。コーンを齧りながら歩くこと20分、本当にこの道で合っているのか不安になってきたところで、ようやく壁が見えてきた。
反戦を訴える様々なグラフィティに彩られた分離壁。
特に私の心に残ったのは、Make hummus, not wallsというもの。Hummusとは、イスラエルとパレスチナを含む中東一般で食べられる、ひよこ豆をすりつぶした料理。
分離壁のそばにはこんな施設もあった。
パレスチナ紛争解決センター。壁を作るのではなく、コーヒーや紅茶を作って、いろいろな問題について話し合いましょう、と書いてある。時間があれば訪れてみたかった。
バンクシーのイラストも描かれている壁の一面は車がひっきりなしに通るジャンクションだったけれど、壁沿いを進むと、ひっそりとした細い道がひたすら続くだけになる。
この頃にはもう陽も落ちて、微かな残り火が赤々と地平線を照らし、壁に影を落としていた。
壁沿いを進むうちに、一台の車がすぅっと私を追い越すようにして通り、前方で止まった。
そこから降りた人影は脇目も振らずに壁の方へ歩き、そして、そこに額を押し付けたまま、動かなくなった。
何を思うのか、壁に額を押し付ける男性。
ああ、まだ終わっていない、と思った。
私が小学生の頃の社会科の教科書。そこには分離壁を見上げる少年の写真が載っていて、それがずっと私の頭に焼き付いていた。それから15年近くが経った今も、何も変わっていない。壁はずっしりとそこにそびえ続けている。
そっと足音を忍ばせるようにその脇を通り過ぎ、私は検問所を目指す。おじさんの話では、壁沿いに進むと、その先にイスラエルとパレスチナの間の検問所があるそうなのだ。
しかし歩いても歩いてもそれらしきものが見えてこない。道端で車を洗っていた人に尋ねると、あっちだ、と指差して教えてくれる。他に頼れるものもないので、それを信じて進む。
ようやく、目の前に建物が見えてきた。
近くでフルーツを売る露天商以外に、数人がたむろう中を早足で進み、検問所の中へ。誰一人いないのが不気味で、思わずやっているのだろうかとガラス張りの窓口を覗き込んだらちゃんと人がいた。係員は無言のまま私のパスポートをチェックし、荷物を検査すると、すんなりと通してくれた。
イスラエル側へ出ると、エルサレムへ向かうバスの停留所はすぐに見つかった。何人かの女性が待っていて安心。しかしすぐ来るはずのバスが待てど暮らせど来ない。30分程待って、周りの現地の人達もそわそわしてきたところでようやくバスが到着した。乗ってからわずか30分程で無事エルサレムに帰還。
私の一日パレスチナ訪問はこれで終わった。
次回、エルサレム訪問第二弾と、イスラエルアニメイベント編へ続く。
参考サイト
①パレスチナ情報→VISIT PALESTINE
②今回訪れることが叶わなかったけれど、ジェニンについての記事は以下の二つのブログに詳しい。
YacchiberrY
ふたりでふらりゆるりとぐるり
③挿入地図は『占領ノート』掲載地図より。
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